東京はこの1カ月間、ほとんど曇か雨でした。
気温も低く、体調を崩している人が多いようです。
病院も内科を受診する人が多いです。
おっさんも天候不順と相まって、この1カ月いろいろストレスがかかることがあり、体調はイマイチでした。
先日からウォーキングを再開しました。
昨日は台風で透析を受けに病院に行ってきただけでした。
今日は久しぶりの晴天で、意気込んでウォーキングに出かけたのですが、調子が良くないので、すぐに引き返しました。

ストレスとか気温変動とか、体に負荷がかかっていたようです。
昼前に再びウォーキングしてきましたが、今度は大丈夫でした。
おっさんは今日から67歳。
昔は67歳と言えば腰が曲がる年齢ですから、無理はできません。
「ひなちゃん」は雷と大雨以外は大丈夫。

67歳となって、生老病死について、チャッピーにきいてみました。
おっさん:「生老病死」について詳しく教えて。
チャッピー:生老病死(しょうろうびょうし)は、仏教でいう四苦、つまり人間が生きるうえで避けることのできない根本的な苦しみを表します。
ただし、ここでいう「苦」は、単に「痛い」「つらい」という意味だけではありません。仏教ではもっと広く、自分の思いどおりにならないこと、変化を止められないこと、執着しても保ち続けられないことまで含みます。
「生」は、生まれることそのもの、そして生き続けることに伴う苦しみです。生きる以上、空腹、疲労、人間関係、欲求、不安、喪失など、さまざまな問題から完全には逃れられません。仏教では「生きていること自体が苦だ」と単純に悲観しているというより、生きることには必ず不安定さが伴うと見ています。
「老」は老いることです。体力が落ちる、目や耳が衰える、思うように動けなくなる、外見が変わる。若いころと同じ状態を保ちたいと思っても、それはできません。苦しみの大きな部分は「老いること」そのものより、老いたくない、以前の自分でいたい、失いたくないという抵抗から生まれる、と仏教では考えます。
「病」は病気になることです。どれほど健康に気をつけても、人間は病気を完全に避けることはできません。病気になると、身体的な苦痛だけでなく、「治るだろうか」「もっと悪くならないか」「以前の状態に戻れるか」といった不安も生まれます。ここにも、現実そのものに加えて、現実に対する心の抵抗や予測が苦しみを増幅する面があります。
「死」は死ぬことです。自分の死だけでなく、愛する人との別れも含めて、人間にとって非常に大きな苦しみです。どれほど財産や地位や健康を得ても、最終的には手放さなければならない。その避けられない事実を「死苦」と呼びます。
この4つに加えて、仏教ではさらに、
愛別離苦:愛する人と別れる苦しみ
怨憎会苦:嫌な人・嫌なものと出会う苦しみ
求不得苦:欲しいものが得られない苦しみ
五蘊盛苦:心身そのものが思いどおりにならない苦しみ
を加えて、四苦八苦といいます。日常語の「四苦八苦する」はここから来ています。
そして、生老病死の教えで重要なのは、「だから人生は絶望的だ」という話ではないことです。むしろ逆で、苦しみの原因を直視するための出発点です。
仏教の考え方では、
現実そのもの
と
現実に対する「こうであってほしい」という執着
を分けて考えます。
たとえば、病気になったという事実がある。それ自体は変えられない場合があります。でも、
「なぜ自分が」
「絶対に元に戻らなければならない」
「この先はきっと悪くなる」
という思考が重なると、事実以上に苦しくなる。
そこで仏教は、変えられない現実を現実として見ることを重視します。
これは「諦める」というより、古い意味での**諦観(たいかん)**に近いです。「諦」はもともと「明らかに見る」という意味があります。
つまり、
事実をありのままに見る。
変えられるものには働きかける。
変えられないものには必要以上に抵抗しない。
という態度です。
最近お話ししていた「事実を受け取ってから次の一手を考える」「現実を受け入れ、最善を尽くす。あとはなるようになる」という考え方は、生老病死の思想とかなり重なるところがあります。
たとえば病気についても、
「病気になってはいけない」
ではなく、
「人間である以上、病気になることはある。では今できる治療をする。」
老いについても、
「老いてはいけない」
ではなく、
「老いるのは自然なこと。その中で今できることをする。」
そして死についても、
「死を考えてはいけない」
ではなく、
「いつか終わるからこそ、今どう生きるかを大切にする。」
という方向です。
なので、生老病死を受け入れるというのは、感情をなくすことでも、何でも諦めることでもありません。怖ければ怖い、悲しければ悲しい。それでも、現実と戦い続けて心をすり減らすのではなく、その現実の中でできることをする。
私は、生老病死の核心はそこにあると思います。
おっさん:出来事の総量は各人で異なるが、苦の総量は捉え方によって変わる、と考えられるか?